puffpuff0001 年金生活者のブログ 雨のち晴れときどき竜巻

年金生活その他についての考察あれこれ

雑感(お盆-2 )


お盆が過ぎても暑い。
昔なら『夏は暑いに決まっている、暑い暑いと言うな。暑苦しい!』と怒られた。
扇風機はなく、どの家も井戸端があって汗まみれになれば頭から水を浴びたり、行水したりして涼をとった。 常時、井戸端(井戸のまわりをまたぎ易い20cmくらいの高さで囲ってあって、その中に水がめがあったり、食材を洗ったり調理器を洗ったり、水浴び、行水や洗濯をしゃがんでタライと洗濯板を使って手洗をしたりする水回りの多目的場所。囲いの形は長方形、正方形が多い。)
水がめに水が張ってあったが、夏にはトマト、胡瓜、茄子、瓜、等冷やしてあった。すいかは滅多に冷やされなかった。 
よほど大切なお客があった時に冷やされたビールを買いに行かされた。


いつの時代も年頃の若い人達は、それなりに格好を決めていたが(戦時下は知らない)、暑い季節には
赤ん坊から、子供、年配の人達まで男も女も普段はどっこいどっこいの格好だった。
赤ん坊からヨチヨチ歩き頃までは金太郎の腹巻き、手製の腹巻きにおむつだった。
赤ん坊はあせも予防にタライの陽なた水(朝から陽が当たる所へタライに水を張って温水にする)で汗を流してはシッカロールでパタパタ、首筋や関節のところをを真っ白にされていた。


男の子、少年はランニングに半ズボン、女の子、若い女性はお手製のブラウス、スカート、ワンピースだった。
既製服は売っていた?売っていたとしても高過ぎて買えなかったと思う。布地を必要なだけ買って、自分が縫うなり人に頼んで縫ってもらったりしていた。
布地の単位はメートルでなくヤールだった。
私の住んでいる所でも文化服装学院、ドレスメーカー学院系の二つの洋裁学校があって、花嫁修業のつもりで洋裁学校に行く人が多かった。
近所、身内の人で洋裁を内職する人がいて頼む事が出来た。私の中学、高校の制服も既製品ではない。
私より少し上の年代の女性は、洋裁が出来る人が多い。
母は昭和50年(1975年)代はじめころまで着物だった。夏になるとなると年配の女性達は、着物、簡単服、アッパパー(頭から被るワンピース風)が混在していた。 
中年の男性は家ではランニング、又はシャツにステテコが多かったが、超年配男性は上半身裸、ふんどし姿にうちわ必須の格好だった。
昭和40年代((1965年 )はじめ、山陰に住んでいて、親しい人に招かれて行ったお宅で、お婆さんがスカートに上半身裸でタオルを首からかけて出て来られた。
当時はもうほとんど見かけない格好で長谷川町子著『いじわるばあさん』に出てくるおばあさんを思い出して、初対面からお婆さんが好きになった、以来山陰に住んでいる間随分世話になった。
昔から庶民は暑くなると、すごいが、涼しい格好をしていたと今思う。
扇風機、エアコンがないから当然かも?。
サザエさん』『エプロンおばさん』『いじわるばあさん』の世界だった。


早朝先ず中断していた草取りをし、一日の最低の家事、通院、外出を午前中にすませる。
暑いので格好は言っておれない。お行儀が悪いが、誰も見ていない。
すごい格好(上半身は格好をつけて言えば肌着、スリップに7分丈ズボン)で用事をしている。
この格好で用事をしたら汗の出方が少なく何より涼しい。疲れが違う。
すぐ着れる様に服を並べといて、ピン、ポーンがなったら、服を羽織りながら玄関に向かう。
涼しくて止められない、止まらない感じで最近家では午前中の用事はこの格好になる。
若くてきれいだったら、ビーチバレーの時の格好が良いだろうが、余りのぼろい格好で一人で笑ってしまう。
早く気が付けばよかった、熱中症なる前に気が付いただけでも良かったかも?。
そう言えば何年か前、隣の在日中アメリカ人のカレンさんが庭でビキニ姿で長椅子に寝て日光浴をしていた。
肌が白くて、トルコ石ターコイズブルーのビキニが映えて美人でスタイル抜群だから、郵便屋さん、宅急便のお兄さん、我が家に来ていた大工さん達が喜んで感嘆しきりだった。
カレンさんは素敵だったが、見たくもない私の格好を訪れた人に見せる訳にはいかない。
これこそ老害だ、気をつけないと迷惑になる。