puffpuff0001 年金生活者のブログ 雨のち晴れときどき竜巻

年金生活その他についての考察あれこれ

雑感( 困ったなあ~(3) )



父が亡くなったのはバブル時代だったのではないか?と今は思う。(私は目の前の蠅を追うのに絶えず多忙を極めていてインフレ、デフレどころか、ましてバブルを実感する事はなかった。)
当時父は入退院を繰り返していたが、70 歳以上は医療費が無料で、母が経済的にとても助かると喜んでいたのを憶えている。
いつの間にか、母の時には医療費が有料になっていた。母は年が明けると早々に95歳になる。
ホームに会いに行くと同じ部屋の人達はほとんど日がな眠っていて、目を覚まして起きている姿で会う事はない。母は目を覚まして居る時が多いのでほっとする。目が合えば手を振ってくれる。
数年前から母がしきりに自宅に帰りたがる様になった。
数年前は、お世話になっているホームの看護師、ヘルパーさんの手前、『家へ帰りたい』と小さな声で秘めやかに言っていたのが、最近は堂々と、誰が居合わせ様がお構居なく言う様になった。
弟と私は母の『家へ帰りたい』を聞くたびに哀しく、心苦しく、申し訳なく、無力感に悩まされる。
困ったなあ~.


父が亡くなった時は、母は62~63歳だったと思う。父が亡くなった途端、平成の時代に関わらず父のあとを継いで母は女戸主(?)になった。びっくり!。
母の意識の中でまだ明治、大正時代の家制度が残っていた。私の持っていた母に対する印象とは全く違う元気溌剌、立派(?)な女戸主になっていて、父同様家族を支配、統率しようとするので、、、、。
又もやびっくり!。
『負けるが勝ち』の信条で生きて来た私は、その場の勢いで何か言ったり言われたりするのを出来るだけ避ける様にやってきた。言っても言われても傷つくのが嫌だった。
その時以来勇ましい母に恐れをなして『触らぬ神に祟りなし、』私は逃げ帰って自分の目の前の蠅を追う事に専念した。
時に母からの呼び出しには出かけていたが、結局8年余り母が身体の具合が悪いと連絡がある迄私から会いに行く事はなかった。近所に住んでいるので日常生活の様子は手伝ってくれていた人から母の様子は聞いていた。


手伝ってくれている人から、母は自らの意志で家を手放した事を聞く。
30数年前、都会には有料老人施設があったかも、でも私達が住んでいる地方にはなかった?。
その代わり当時、個人病院が融通のきく有料老人施設を兼ねていた様な気がする。
自分の家と違って病院とか、施設はいくら個人部屋と言っても集団生活だ。
病院、施設はスケジュールがあって、初めて成り立つ、誰でも規則や時間に縛られたくない。
母は個人部屋だとすべからく気侭に出来ると勘違いをしているのが、泣けてくる。


ずいぶん病院、施設を転々としたし、弟がつてを頼って希望者の多い、今で言う『高齢者賃貸サービスマンション』に入れたが、数年すると飽きて、いろんな理由をつけて弟や私が引き止めるのも聞かず出てしまった。
その後、相変わらず転々として今は終末ケア専門のホームに居る。
『病院、施設に飽きる』気持ちもわかるし、『家に帰りたい』気持ちもよくわかるが、、、。
人の手を借りないと自分の身の回りの事が出来なくなって、自宅に帰りたいと言われても、30数年間で
弟も私も事情、状況が変わっている。
いつの頃からか弟は難病を患っていて毎年入院が必要だ、私は行動範囲が限られていて自分の事しか出来ない。
二人とも心苦しいが如何とも仕難い。
その上、母の記憶は社会生活をしなくなって、戦後、何も無い所から苦労をして、日本の高度経済成長期、バブル経済時代で止まっている。
母は景気の良かった時代を経験しているので、それはそれで良かったと思う。
しかしベットの上で未だ私達の女戸主でもある。母自身は当然と思っている様だが、、、。
母は、この30数年間を予想してなかった事が多々あったと思うが,殆ど話さない。
年をとる事は誰でも経験がなく十人十色で、予定、計画できないところが難しいと思うと、ため息がでる。