puffpuff0001 年金生活者のブログ 雨のち晴れときどき竜巻

年金生活その他についての考察あれこれ

雑感(7月,雨)

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台風の季節でないと思うが、南の海上で台風が次から次に発生して日本列島に上陸する。
梅雨時と重なって、雨はひっきりなしに降って、窓は開けられず蒸し暑くて、かなわない。
雨が降るだけでなく、風もあるので、やっと往復30分位歩ける様になったので気分転換に歩きたいが,万が一滑って怪我でもしたら、アウトだ。 
やむなく引きこもり状態が続いている。
しとしと降る雨や、勢いのついた大粒の雨が地表に叩きつける様を見ていると、ずっと昔の事を思い出す。 


長靴を弟と一緒に初めて買ってもらったのは小学校の2年生の時(昭和22年=1947年)で、長靴を履いた事がなかったので珍しいのと、早く試したいのとで履いて弟と二人で畳の上を歩き回ったりした。
この年は例年になく大雪で、長靴がちょうど良いタイミングで間に合った事と私と弟は雪を見るのも、触った事もなかったので長靴を履いて雪の中をはしゃぐ私達を見て両親は満足そうだった。
思えばゴムの薄いペラペラした長靴だったが、両親は長靴を手に入れるのに、何を手放し、交換したのだろうか?
本来なら、食料と交換すべきご時勢だったから、今、親の気持ちを思うと胸が一瞬キュッとする。
子供はすぐサイズが合わなくなって長靴はどこかの子供が履く様になったのだろう。


小学校の6年生の時(昭和26年=1951年)こうもり傘を買ってもらってとても嬉しかった。しかも自分専用だった。
皆、傘には難儀をしていたのだろうか?、こうもり傘は、一気に学校中に広まった。全員お揃いの黒色!。(初めてこうもり傘を差したのは、私ではない。友達がこうもり傘を差しているのを見て、余りの
使い勝手の良い便利さに、驚嘆した。『こうもり傘は、ずぶ濡れにならない』の一点で番傘と比べようがなく優れて見えた。)
それ迄は、番傘を差していて、番傘は竹の太いひごと油紙で作られていた。
当時の油紙、糊の原料が悪かったせいか、番傘は傘の役目をせず難儀で、やっかいな代物だった。
妖怪が主人公のイラストや漫画の背景等で見かける破れ傘?
新品がたちまち使い物にならないなんて? ギザギザに破れるのでなく、傘の天辺を中心に扇形に裂けた状態と言うか、剥がれると言うか、扇形の裂け目が飛び飛びに出来るので、残った扇形の中で雨に濡れない様に努力するが全く無駄。
登校日、雨が降って頭からずぶ濡れになって学校に着くと、寒い季節だったら、最悪だ。身体が震えて唇が紫色になっている友達を見て自分も同じ状態だと気ずく。これでやる気を出せって?
学校の校舎ごとに昇降口があって、足洗い場が設けてあった。体育の時間は、全員裸足だったし、雨の降る日は大部分の児童は裸足で登校して、足を洗って教室に入って来た。
他は下駄か、草履(わらじ)だったと思う。もちろん上靴なし、代わりに,竹の皮か、稲を刈った時出る藁で編んだ草履を履く。履けるだけでも感謝しなければ、冬の裸足は冷た過ぎる。
常時、ズックを履いているのはお金持ち、医者、薬屋,質屋の子供ぐらいかな?


クラスに2~3人の割合で、一年に1~2回、ズックの購入希望者を募る事があった。ただし古いズックの ゴム底を用意出来る人だけが申し込みをする事が出来た。大部分の児童は古いズックのゴム底が用意出来なかったのだろう、だから入手困難は、なかった。
ズックの申し込みはいつの間にかなくなって、6年生の一泊二日の修学旅行に、下駄を履いた同級生がいたかな?記憶にないなあ~。   


修学旅行で思い出したので、ついでに一言。一泊二日の旅行は到着当日の夕食、翌日の朝食、お弁当の分として白米三合持参。旅館に着いたら、1列に並んで旅館のおばさんに渡す。
当時ビニールの袋なんてないので手作りの布袋に白米を入れていたが、おばさんが一人ずつ真剣にますで三合あるかどうか確かめるので、自由時間が短くなってがっかりだ。
出発前に白米三合と何回も念を押されたのはこの事だった。特別な日でも白米を食べるのが困難な時代だった。
運動会、遠足、修学旅行などの学校行事があると,何人かの父兄が担任の先生にお弁当を渡す風景が見られた。いつもの風景なので誰も、気にするとか話題になった事はない。
更に遠足や修学旅行に必ずついて来る親がおって、何処に行くにも、私達が並んで歩くのに前になったり後ろに居ったりして不思議だった。