puffpuff0001 年金生活者のブログ 雨のち晴れときどき竜巻

年金生活その他についての考察あれこれ

出会った人々 (22)



昭和30年代前半(1955年~1959年)、食料事情は多少落ち着いて来た。当時冷蔵、冷凍、ハウス栽培、養殖などの技術の研究、開発は進行中だったのかな?、、、。
もし完成されて販売されていたとしたら都会の一部の話だろう。
地方の片田舎の食料事情はこれらの進歩的な恩恵を全く受けていない。
私の記憶と経験は、あくまで地方の話なので、技術の進歩、開発、販売は都会に比べて時期的にずれている可能性が多い。まだ一般の家庭に白黒テレビ,2ドア冷蔵庫も普及していなかった頃の話。
お弁当のおかずに時々魚肉ソーセージ、ハムが入っていて珍しく、嬉しかったのを憶えている。
輸送手段も鉄道が主なので食材の殆ど『産直』。
誰もかれも,否応なく旬の物を食べる。季節が変わらないと違う物は食べられない。
食材は品種も少なく変わらないので、料理を工夫されても毎日同じ物を食べている気になる。
タマネギなんか腐り易いせいか、季節の間中、毎日朝から晩まで,タマネギずくし、、、、。
他の野菜も品種改良どころか,とにかく量産を上げる事に専念しているので、茄子、キュウリ、トマト、かぼちゃ、葉類、芋類、、、、大きいばっかり?、、、味は言わずもがな。


当時、地元以外の大学生、単身者は、寮か下宿をして学校、勤め先に通う。
下宿は、殆どの人は賄い付き下宿人でお風呂は、銭湯を利用していた。他に部屋だけ借りて食事は外食でお風呂はやはり銭湯を利用する間借り人とがあった。
学生、単身者の外食と言えば『賄い』=まかないと言う看板が出ていて、週か月単位で食事を契約する、主に下宿人の為だが外部の人の注文も受けて兼業していた所に食べに行くのが、普通だった。
大家は、よほどの事情がないとお風呂は貸してくれない。
大学生、単身者は正月、盆には下宿、寮、お店が閉まるので食事に苦労して帰省せざる得なかった。
Rちゃんは『定食屋』を始めていた。当時、お弁当を売っている店は無かった、パンの種類は少なかったがパン屋はあった。何せお店自体が少なかった。
Rちゃんの期待に反して、一般の人々は外食、既製品(出来上がった総菜、ご飯)に対する抵抗があった。つまり外食、既製品の利用は、贅沢に思われていた。
大学生、単身者は帰省すると餅や、かき餅を抱えて帰って来た。暖房に炭火の火鉢を使っていて、お腹が空いたら焼いて食べるのだ。外食、既製品を買う発想がない。


Rちゃんは朝早くから,夜遅くまで働いたらしい。
人件費を抑える為に手伝いのおばさんを忙しい時間だけ頼んで、買い出しから仕込み、夜の片ずけ、掃除、、、自分で出来る事は全部一人でやっていたらしい。
忙し過ぎてRちゃんは、自分を見失っていったのかも?
残念ながら素人が商売をすると、恐ろしい事に毎日売り上げの現金が目の前にあって、お金がある様に錯覚する事だと思う。
『定食屋』が繁盛してもしなくとも、経費は絶対必要なのに、必要だから、必要だからと目の前の売上金を寸借してお金を出していたら、支払いの期日に支払うべき現金が残ってない? 
商売は、信用第一。当時商売の仕入れは殆ど掛けで、現金払いは余りない。仕入れ先には決まった期日に支払わねばならない。
月末になると仕入れ先、家賃、公共料金、税金、人件費、、、、さあ~大変、月末は多額の支払いに持ち出しを?。
赤字になった多額の支払いを,誰がするの? もちろんRちゃんだ。
Rちゃんには赤字の持ち出しばかりで何も残らなかった。
Rちゃんだけが『骨折り損のくたびれもうけ』? 。
自分が素人だから、馴れないからと自分を責めながら頑張れば頑張る程、お金は出て行ったらしい。


Rちゃんは、外食が一般的でなかった難しいご時勢にリピーターを増やす為に,『定食屋』を軌道にのせる為に、一人でよく頑張った。
でも好きで頑張ってると勘違いされたら、困りますねえ~。
Rちゃんは誰もが認める性格が良かった。『豚もおだてれば木に登る』ではないが、
だから『よいしょ』すれば、喜んでもっと頑張るのに、『よいしょ』してほしい人が一番必要な時期に、、、。