出会った人々(!2)
近所に写真館があった。写真館はおじさんの人柄とマメさでもっているようだった。おじさんは商売の合間には子供会や町内会の行事に率先して参加していたし世話をしていた。勿論おじさんには娘がいた。
未だカメラが一般に普及してなかった時で、用のある時もない時も周りの人達は写真館に出入りしていて頼めば証明写真、記念写真、出張写真も気安くOKだった。
おじさんは、子供達にポーズをとらせて自分が納得するまで撮影をするので、子供達にはいまいちだったが、親達は喜んでいる様だった。ある日、写真館の前を通るとおじさんが出て来て手招きするので、何事かと入ると『まあ~座って』と言って大きなため息をつかれる。
『はあ~、Mさん、うちの娘、成田離婚で帰って来たのよ、驚いたのなんの、、、成田離婚なんて東京か都会の話かと思っていた。この田舎で、しかも自分のうちに起ったで、、、』おじさんは、一度に老け込んで見えた。
こんな時どんな対応したらよいのだろう?、おじさんのお嬢さん達の可愛がり様は皆知っている。だから余計わからないので『お見合い結婚だったんですか?恋愛結婚だったんですか?』
『それがお見合い結婚だったんよ、良いご縁だと思ったんだが,,、、,添うて見んとわからんと言う事か、、、結婚ばかりは結婚してみないとわからん事での、、、』
私は内心『結婚は遅く、離婚は早く』と言う言葉を思い出したが、何も言わなかった。
意外に早く、一年後全く違う相手と娘さんは再婚された。
昭和25年=1950年~
洋画に興味をもったのはこの二つの作品だった。私は早くから自立志向が強くて仕事に関心があった。
戦後未亡人、両親又は片親をなくした子供達の悲惨な生活、復員兵達若い人達の無職の生活を見ていたので、自分の将来を考える様になったのだと思う。
喜劇王と言われた榎本健一や古川緑波、金語楼の映画をみても、周りの人たちが大笑いをして楽しむのに,私はおかしくなかった。美空ひばりの映画を見ても普通の子供が出ている様で興味はなく、ターザンの映画は面白かったので欠かさず上映されれば毎回通った。
主題歌は大ヒットして,今でも歌える人が多いと思う。
高等学校は男女共学に編成がすすんでいた。私の従姉は男女共学の高等学校に入学して、会えば学校の
話をしていた。従姉は学校に行くのが楽しそうだった。
それまでは男子、女子お互い話したり一緒に行動したりする事がなかったんだろう。
昭和30年代は戦後の食糧難と混乱が落ち着いて来て,民主主義も制度、教育、日常生活、、、の中で
都合の良い時につかわれた。
確かに民主主義になったお陰で女性は教育を受けやすくなったし、意識も向上したと思う。
昭和天皇第五皇女、清宮さまは私と同年齢でいらしゃるので、お名前はよく存じ上げていました。
清宮さまはお名前の通り、清々しく,闊達なご性格で国民に親しまれた方で、ご結婚前の記者会見で
『私の選んだ人を見て下さって、、、。』おっしゃった。
『私の選んだ人を見て下さい。』は流行語にもなった。 老若男女の、結婚に対する意識を変えた。
この期を境に恋愛結婚が普通になった。
だからと言って、如何せん男女交際、恋愛は育つ時間も土壌もこれまではなかったと思うが?
昭和38年=1963年~
思い出した事があった,こんな話を二度も聞くなんて、私が上司から直接聞い話だが、『前任者は、少し変わっていた。あれほど変わっているとは思っていなかった。新婚旅行で新婦を旅先において帰って来てそのまま離婚した、、、。』
『恋愛結婚』と言う言葉が堂々と使われ始めた時代から、堂々と恋愛結婚出来る時代になった。そして一方では『離婚』すれば変人扱いをする意識が社会には同時に存在していたのだ。今でも、、、かも?