puffpuff0001 年金生活者のブログ 雨のち晴れときどき竜巻

年金生活その他についての考察あれこれ

お金の話(32)



数十年前の話なので今の時代に当てはまるとは、とても思えないが、、、。
日本が戦争に負けて、一部(どんな環境、社会、時代になっても、富裕な人たちは居る)を除いて、殆どの人々は家族、財産、仕事、、、を失って、裸同然の貧乏になってしまった。
残った山野、田畑は荒れていた。
昭和21年=1946年新円切り替えで、誰も彼も貧乏に差がなくなって、全員、困窮生活になった。
衣食住の中で、特に食糧難で、赤ちゃんからお年寄り、病人までお腹をすかしていた。
『貧すれば鈍する』もう品性なんか、言ってられない、家族を養う為に、老若男女各自知恵を絞り、食料獲得のため東奔西走し、身体を張って働いた時代だった。


何処の家庭も、学校の先生も食料難で、頭一杯。 家庭では食料を調達したらしたで、容量を如何に増やすか、口に合う様に代用食を工夫するのに忙しい。
先生は家庭の事も、その上、民主主義の新しい教育方法(?)の勉強に忙しそう(?)だった。
住んでいる市には数年間、米軍の駐屯基地があった。
何処で何をする為に出かけるのかウイークデイの夕方には、数台のジープを先頭に何台もの大型の軍用トラックに兵隊を満載して帰って来た。住宅街は進駐軍の帰りの道路に面していたので、米軍兵隊の体格の大きさ、軍用トラックで運んでいる物資の多さに、びっくりさせられた。


そんな社会状況の時、毎日暇だったのが、私達の年代、小学校三年生以下の子供だった。
小学校四年生以上は働き手として家庭でも、学校でも重宝がられていた。学校の掃除の時間、六年生が当番で1~6年生のトイレの汲取をしているのを見て、六年生に成りたくないと思った。
五年生の時、五、六年生の校舎だけ立て替えられて、トイレは水洗になった。


私が小学4年生の時だったと思う、祖父(母の父親)が、我が家に来て、暫く一緒に住んだ。
その時以来、私の顔を見るたびに『女子だからと言って、勉強せんで良いと思ってはいけない、女子も男も勉強を一生懸命せんといけない。』と優しく言う。両親から言われた事がないので、優しい祖父が繰り返し優しく言うので、心に残った。
毎日、暇だったので、遊びに飽きると大人の働いている様子を自然と観察(?)してしまう。特に女性達の働く困難さと労働に対する評価の低さは、子供心にも辛く感じられた。
周りの貧乏より、孤児や未亡人の生活は、さらに悲惨を極めて気の毒だった。私は小学5~6年生の頃には自分の将来を考える様になっていたと思う。父の仕事が不安定のせいもあったと思うが、とにかく仕事に関心があった。
年々、安定志向も強くなって、自立するにはどうしたら良いか、仕事はどうするのか、ずう~と気が付いたら考えていた。