puffpuff0001 年金生活者のブログ 雨のち晴れときどき竜巻

年金生活その他についての考察あれこれ

お金の話(30)



平成元年=1989年~平成16年=2004年
台風が通り過ぎた朝、セメント瓦が飛んだので、棟に被せてあったステンレスの鋼板を拾い集めた。
セメント瓦は重ねた部分が短過ぎたのか、瓦一枚の重さが軽いのか、風に飛ばされて所どころ残って
いた。野地板がベニアだとわかって、がっかりだ。
安かろう、悪かろうの見本だ。これでは瓦が飛んでも、仕方が無い。
工務店も手抜きをして良い場所と、手抜きをしてはいけない場所とを、しっかり判断して貰わないと、度々同じ場所にお金がかかったら、たまらない、まったく!。


当時、近辺の昭和初期の家は次々解体されていた。その中でも、我が家が一番古い。
ブルーシートも限界になって来た。家の中はどうでも良いから、屋根と外壁を頑丈にしたい。
融資を頼みたい気持ちがあったので、何度か銀行の前に来ていたが、逡巡しては、帰っていた。
三度目の融資を頼むのは、さすが気が重かった。
が、偶然『秋の国民住宅金融公庫』募集が始まっていた。この募集に応募、(銀行に融資を頼むのは、実際骨の折れる交渉だ。銀行員の沈着、冷静、丁寧な応対に接すると、自分が如何に、がさつで、支離滅裂な人間に思えてきて、ますます、何故かあわてふためいて『ボロ』まる出し。)
今回はどうも、年齢が引っかかる様な、その他、、、何とも歯切れの悪い返事だった。


若い頃は食べても、体重が42kg以上ならなかった。50歳過ぎて体重が増えて来て、洋服のリフオームを頼む様になった。厚かましくなって来たせいで、体重が増えるのだろうか?とか思ったりして、、。
どうしても、銀行で最後の融資を受けねばならない。
毎回、支離滅裂、窮状を説明するのが巧くならない、厚かましいと自分ではわかっているから、余計
ぐちゃ、ぐちゃ、言ってしまう。何回か銀行に通って、リフオームが決まった。
もう、何年も生活は一向良くならなくて、困窮生活が常態化してしまった。
第一の融資が完済する頃、第二の融資の返済が始まる、第二の返済が終わろうとしていた矢先、台風が
通過したのだ。こんな筈ではなかったと思っても無駄。思う事は止めよう。


当時、塾の講師と、旅館の女中その上、下宿屋のおばさんを始めたばかりだった。振り返って思い出すと、昭和から平成に元号が替わった前後20年間、常時二つ~三つの仕事を持っていた事になる。
2~3年後?、旅館の女中は辞めた。
朝が来るのも早ければ、夜が来るのも早い、何が何やら、考える暇もなく立ち止まる事の出来ない馬車馬の様な生活をしていたと思う。ただし仕事を好きでしていたので、どちらも全力投だったと思っている。
私自身は、そんな状態を好きで楽しんでいたので良かったが、ただただ忙しく、そんな私に不満や訴えを言葉や、態度に表す事が出来なかった人達を気使う気持ちが大いに欠けて居たと思って、反省している。本当に申し訳ない事をした。
この20年間、いろんな事があった筈なのに、自分に都合良くちゃっかりと記憶の大部分がすぽっと抜けている。


映画『風と共に去りぬ』の第一部で主人公スカーレット、オハラが庭で 激しく号泣した後、
『もう、二度と飢えに泣きません、、、、』の長い台詞に、戦後育ちの私は感銘を受けた。
私が働き始めた時、スカーレットの台詞に込められた気持ちが、私の中に少なからずあった。
私がこれから始める事を正当化してくれた言葉だったし、エールだと思った。彼女の前向きな人生観と自立志向に同感していたから、二度と、自分のない生活に戻りたくなかった。
どう考えても、自分の人生は自分が主役でなければ、つまらない。生きている意味が無い。
『人は人、私は私、』まさに、その通りだと思う。
人を当てにした人生は、如何?と問われたら、人によるとしか答えられない。

第二部の、ラストシーンの台詞『  Tomorrow   is  another  day』も、大好きな言葉の一つだ。