puffpuff0001 年金生活者のブログ 雨のち晴れときどき竜巻

年金生活その他についての考察あれこれ

お金の話(25)



昭和49年=1974年 お金のない生活は相変わらず困窮を極めていたが、働く事で気分転換になった。
使い走りの仕事の往復の途中に高級の鞄、靴の老舗の専門店があって、黒い鞄がショウウインドウに飾ってあった。毎日立ち止まって良いな、良いなと眺めながら値段が知りたくなった。値札はいつ眺めても裏返しでわからなかった。半年位眺めて、売れてしまったら、自分には縁がなかったと諦めようと思っていた。
ある日、いつもの様に眺めていたら、ご主人が出て来て『お気に召した品があれば、手にとってご覧になるだけでいいから、どうぞ』、値段が知りたくて手に取って見た。言葉も無かった、間違いかとゼロを数えるが間違いではなかった。『ありがとうございました』とやっと言った。
ご主人が『良かったらお持ち帰りください、お支払いはお客様のご都合に合わせます』『?』どう返事をして良いかわからなかった。『ありがとうございます。もう一度考えてみます』と店を出た。


私が20歳代、仕事をしていた頃は未だ既製服は余りなく、母の趣味で誂えの洋服が、未だ袖を通してない洋服を含めて結構あった。体重が変わってなく、そのまま着れた。
後は鞄さえあれば何か行事があっても慌てなくてすむ。ショルダータイプなので、母に相談したらきっと別の鞄になって、この鞄ではないだろうと思った。
店の御主人に会ってから、三ヶ月間位考えた。まだ売れ残っていた。私はこの黒の鞄以外、持ちたくなかったので、ご主人と相談して一番長い月賦で買った。
(値札のゼロの数にショックを受けたに関わらず、鞄の値段が正確に、思い出せない、長い間、考え、迷ったのに不思議だ。サラリーマンの給料の何倍か?と考えた所まで記憶が?、、、。 )
現在で言うイタリア製のブランド品だった。(当時ブランドと言う言葉があったかな?。)


三年前、ベルトの縫い目がほつれたので靴、鞄のリフオーム専門に持って行って縫って色が薄くなった鞄の蓋と縁を染めて貰った、また蘇って素敵になった。      
40年以上この黒の鞄で過ごした事になる。使えば使う程、皮が馴染んで、今も大事に使っている。


昭和50年=1975年  数年前、田中角栄総理の日本列島改造論が発表されて期待していたが、地方のインフラ整備は、遅れに遅れていた。特に上下水道の整備はやる気がない様に思えた。
毎年初夏の大掃除に班長が、市が配った濃縮防虫剤を配る、家毎に希釈してトイレ、側溝に撒く。
当時トイレは汲取で、毎月汲取をして貰いたい家は旗をたててバキュームカーを待つ。
バキュームカーには、ほとほと手を焼いた。完全に相手の言いなりだ。
普通の家で、4~5人で月5000~7000円なのに、私の家は、何故か人数がいないのに、最低7000円~からで、おかしいと用心していた。
その日は雨が降っていて、10,000いくら要求してきた。後先考えず言ってしまった。『人数がないのに、少し高いのではないでしょうか?』『わかったよ、あんたの家のウンコ全部戻せばよかろう』とホースを延ばしかけるので、完全にこちらの負け。
一晩中、毎月これから10,000いくら払うとしたら、、、、。
翌日工務店連絡、その足で初めて銀行に行く。