puffpuff0001 年金生活者のブログ 雨のち晴れときどき竜巻

年金生活その他についての考察あれこれ

お金の話(24)



昭和48年=1973年 『帯に短し、襷に長し』で、知人の奥様の貸家探しが難航した。仕事上、勤務が交代制であるので、先ず三人のお嬢さん達の安全を第一に考えると防犯がしっかりしてある物件、常に人の目がある事、学校と病院に近い事、この三つの条件は世話する側として譲れなかった。
今ならマンション、アパートが豊富で、家賃もある程度選択出来るが、当時は物件が少なかった。
予定より遅れて1学期の終わり、母の姪が、新築の家に移るので貸家を出る、大家は中年の女性で庭続きの隣に住んでいると言う事で、家族にとって住み易いか、どうか別として急遽決断された。
たまたま、私の住んでいる家と歩いて五分くらいの距離にあった(私は一足早く引っ越して来て居た)
総合病院の婦長様の計らいで、お嬢さん達が馴れる三ヶ月間パートで後に正式に復帰された。
お嬢さん達も立派に成長されて、奥様は定年まで勤められた。ご主人様の田舎に帰られて、会っていないが、難儀な時を共有した人が今は、悠々自適の生活をされているのは、嬉しい事である。


実家の近くに帰って来た。仕事の選択をする経済的な余裕はなかったが、人とのコミニュケーションは苦手、健康と規則正しい生活には自信がなかった。とどめは悪筆、字が余りに下手だった。
労働市場で自分を売り込む能力、技術がないのがよくわかっていた、仕事の選択はおこがましかった。
とりあえず、事務所の使い走りの仕事をする事になった。


当時(昭和48年=1973年)は、まだ『国民年金』の加入の啓蒙活動が行われていたのだろうか?
私の記憶では昭和36年=1961年に納付制度が始まったと思っていたが、自分が歳をとると言う事が全く実感出来なかった、想像すらした事がなかった。
転居して来て町内会に入ると、早速、役員が来訪して『国民年金』の意義の説明と加入を勧められた。
私は35歳だったが、『国民年金』の意義を説明されても、仕事を始めたばかりで、『国民年金』の掛け金どころでなかった。
ところがその際、町内会では、『国民年金』の集金ばかりでなく、ついでに金融機関の○○局の定期貯金、保険の加入も勧めていた。ー(○○局は現在名称変更)
要するに町内会は集金の手数料を町内会の収入の一部に当てていると言う話だった。
話の内容をいい加減に聞いていたが(自分は老人にならない?)、以後ず~っと私の中に刻み込まれて離れない事があった。


現金も貯金も縁がなかったので普通貯金通帳に担保定額貯金なるものがあるとは全く知らなかった。
当時の預け入れの最低限度額は覚えていないが、現在は一口千円以上だ。他の金融機関は敷居が高くて、行く事さえなかったが、○○局は馴染みがある。
担保定額貯金の残金の九割まで無条件で貸して貰えると言う事だ、つまり自分の貯金を担保にするのだ。お金を持っていないと、どうにもならない、途方に暮れる事が多々ある。私は個人的に人にお金を借りない、私も借りに来られたら困る、お金が無いから。お互い困る事はしない、それだけ。
絶えず生活は自転車操業で成り立っていたので、危機は数えきれない程あった。私に出来る事は、誠意を示す事だけだった。一時でも借りれる所があったらと何度思った事か、お金を工面して担保定額貯金をしよう、考えた末、『つもり貯金』だった。小額だったので役員でなく、自分で○○局に行った。