puffpuff0001 年金生活者のブログ 雨のち晴れときどき竜巻

年金生活その他についての考察あれこれ

お金の話(23)



昭和47年=1972年~昭和48年=1973年
カラーテレビをとおして見たり聞いたりだけの私の中で、少しずつ意識が変っていった。
現在の食生活で、『麦飯、めざし、味噌汁、季節の香の物』はヘルシーの代表的な食事だ。
振り返ると、昭和25年=1950年12月、当時の池田勇人蔵相が『所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うと言うような経済に沿った方へ持っていきたい』と発言したらしい。
私が記憶にあるのは『貧乏人は麦を食え』だけ。この発言はは物議をかもした。
その頃まだ米穀通帳があった、私は炭水化物系で出来た食べ物が好きだ。お弁当が持参出来ない時勢であったので学校から皆、昼ご飯を食べに帰っていた。
米の代用食として、配給のサツマイモの粉があった。サツマイモの粉のパンは、見かけは黒っぽく、中は灰色がかっていた?と思う、サツマイモのパンが美味しくて走って帰っていた。今、食べると美味しいかな?食べてみたい。
もう戦後ではない、『貧乏は苦でも恥ではない』と言われた時代は終わったのか?


昭和40年=1965年代に入ってから、時代は猛烈な早さで老若男女を取り込んで近代化への生活と意識を変えたと思う。
カラーテレビのCMは、人間の五感を『これでもか、これでもか』と常時刺激したと思うが、思ったのは私だけだった?
だけど心の何処かで、憧れていた洋画で見られるようなアメリカナイズな生活が、簡単に手に入ると思えず、どれくらいの辛抱努力と、犠牲が要るのかなと思った。
数年前、父が『これからは、みんなが自動車を持って乗る時代になる』と言っていたが、たちまち、このコミニュテイーは、1世帯1台、全世帯が乗用車を所有した。


家賃、公共料金、、、などは、息を吸って生きるだけの最低限必要な費用だ。その他の項目を倹約をし
削れるだけ削っても、食費にしわよせがいってしまう。当時私は麦飯が健康に良いと知らなくて『貧乏人は麦を食え』とは、収入にあった生活をしろと言う事と理解していた。
とっくの前から、言われなくとも、そうして居た。
辛抱我慢は、何か目標、希望があってこそ出来る。当時の私は、もう限界を感じていたし、希望も将来も見えなかった。
このままでは、いけないとばかり考えていた。さすがに買い物が好きでない私も好きな本一冊すら買えない、何も欲しがらず、最低の食材しか買わない無味乾燥な生活に、くたびれて来た。
人に対して優しさも思いやりも無くなくなって『投げやりな気持ちと、このままではいけないの気持ちに揺れに揺れていった。


誰もが口には出さなかったが、経済的不安定な生活を改善しようと模索して居たらしい。
コミニュテイーの主婦の動きはさすがに速かった。復職めざす人、講習を受ける人、自動車学校に通う人、、、私は転居を考えていた。 
物価の上昇は、収入の上昇をはるかに超えて倹約?節約?の段階ではなかった。あ~お金が欲しい。


女性の何%かは、家庭生活に多少の不都合があっても、間に合ううちに働いてお金を得よう、そして自分の生活を守ろう。意識は都会より数年遅れて、地方の女性も働き始めた。
コミニュテイーでとても世話になった奥様は、私の出身地の総合病院の看護婦だった。ある日『S市で働こうかと思うが、どう思うか?』と尋ねられた。
私は、『全く知らない土地に子供三人連れて働き始めるのは、私なら出来ない。元の職場に戻る気は、
ないの?』と言ったら『そうね、よく考えよう』と言って帰られた。
数日たったら、総合病院の婦長さんが復帰を考えて下さるからと「案ずるより産むが易し』の通り、話がトントンとすすんで翌春に再就職が決まった。
世話になったし、行きがかり上、母に病院と小学校に近くて、街の中心地に近い貸家に心当たりがないか聞く事になった。