お金の話(22)
昭和45年=1970年~昭和46年=1971年
天気の良い日は、ベランダから遥か遠くまで田畑が広がって、所々に人影が、また乳牛が草を食んでいるのが見える。 盆地だから霞んで山々が連なっているのが見渡せる。
眺めていると気持ちが洗われる。
何も起らねば、風景と同様に平穏に暮らせる筈。プライバシー全公開状態だからお互い、自分の生活が手一杯だとわかる筈だと思っていた。
交通の便に難がある所、不利な環境こそ『小さな親切、大きなお世話』をお互いにしながら、全てを共有する生活に、(自分にとって都合が良いか、都合が悪いは別として、)勤しまなければならない。
此れは結構きつい。
私がこのコミニュテイーに移って来た時、すでに勤め人は普通車、軽自動車、単車を利用していた。
土、日曜日、家族で出かけるのを見て居て、この場所に住んでいれば自動車は、必要不可欠な機動力と思っていた。
私が自動車の免許を取った事が、他の人にとって問題になると言う認識はなかった。
聞かれたら、私はお金が無いとはっきり言うし、隠しても居ない。お金が無いからご飯の事で、終日頭が一杯なのだ。
少しでも暇があればカラーテレビにかじり付いて、アニメ、音楽番組、ニュース、ドキュメンタリー、ドラマ、お笑い番組をひたすら見て過ごす。楽しければ良かった。
お陰で座ったまま世相、流行、新発売は多少知って居た。
昭和46年=1971年秋の某日、フエリーを待っていると、次々と人が美味しそうに海岸に座ってフウー、フウーしながら食べている。
当時から45年余り経ったが、ヒントがあれば結構、鮮明に思い出す。(当時テレビ漬け)
お金と暇は半比例だ。
~昭和46年=1971年仕事を辞めて、ほとんど家に引きこもり状態で小さなコミニュテイーの中で生活をしていると、情報は新聞、テレビしかなかった。
辺境の地で暮らした私自身の実感と独断、偏見で言えば、昭和39年の東京オリンピックをきかっけに家庭生活は電化で便利になったし、食材はインスタント食品、冷凍食品等が加わって豊富になった。あくまでお金があっての話だったし、地域差もあったと思う。
昭和30年=1955年代後半、『白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫』は『三種の神器』とまで言われたが、実際 は、~昭和38年=1963年 白黒テレビを購入した家は、近所の老若男女が遅くまで鑑賞して、就寝出 来ないと困っている話を、あちらこちらで聞いた。小、中学校の父兄会で校長が注意する事もあった。 ぼちぼち余裕のある家が2ドア冷蔵庫を購入し始めた。
昭和42年=1967年、入居した公営住宅では保持率、白黒テレビ93,3% 2ドアの冷蔵庫 93,3%、
自動車 13,3% 洗濯機は借りて済ましている家もあった。(家の中の事はわからない。その人がテレ ビ 洗濯機を持たない生活を信条にしている場合もあるので)。
中心地より離れているので自転車も貸したり借りたりで、自転車がない家も結構あった。
とても自動車どころでなかった。
昭和45年=1970年 次に入居した公営住宅では保持率、白黒テレビ100% 洗濯機(二層式60%、ロ ーラー式40%) 2ドア冷蔵庫100% 自動車80%だった。
洗濯機の二層式の脱水の威力は素晴らしかったが、昭和53年=1978年まで脱水機だけ買ってしのい だ。
昭和46年=1971年 入居者の保持率 カラーテレビ100% 洗濯機(二層式60% ローラー式40 %) 2ドア冷蔵庫100% 自動車100%.
公営住宅の住民は、否応なく収入は公開同然だ、だから個々の家の生活の信条がもろに出て、差がつく。 人口の少ない田舎でも、スーパーマーケットもどきの店がある。
昭和40年=1965年代は 大袈裟に言えば、買い物の度に、欲しい物、試したい新製品が続々開発され、店頭に並んでいて、衝動買いしたくなる。欲しい商品でなく、試してみたい商品でなく必要最少量を買わねばならない。
自分を抑える自信がないので、だから私は先ず、人とは買い物に出かけない。
物価の上昇には、全くついていく事は出来なかった。