puffpuff0001 年金生活者のブログ 雨のち晴れときどき竜巻

年金生活その他についての考察あれこれ

お金の話(16)



昭和42年=1967年
一回目の手術は順調に回復した。春暖かくなるのを待って、また借家に戻って来た。
留守の間に引っ越しは済んでいた。確かに健康には良さそうだ。陽当たりが良く部屋は明るかった。
一戸建てで、築年数も余り経っていない様で、どうして借家にしたのだろうと思える物件だった。
でも、家賃が10,000円? いきなり3000円の家賃から10,000円の家賃に大幅アップ、、、、。
極端過ぎるが小さい町は、物件が少ないのだ。需要、供給の関係と言われても納得出来ない。
雨露しのいで、ご飯食べないで息を吸って生きるだけでもお金が足りない。一体、どうなるの?、、、
とにかく公営住宅を申し込む。空きを待つ事になった。


好きな本や雑誌を買う事さえ出来なかった、誰とも会う事も無く家にこもって居た。
家にこもってばかり居ると、何処でも良いから遠くに行きたくなる。 こんな時、自転車に乗って行ける所まで行く。見知らぬ町は、超都合が良い、面倒な事は一切ない。誰とも会わなくてすむ。
友人、知人とも全く縁が切れた状態になった。友人、知人から誘いがあっても一回、二回と断ると、
さすがに相手もこちらの事情を察して三回、四回、、、はない。 お世話になった老婦人や身内にも
何とかしたいと思うばかりで義理を欠く。知って知らないふり、忘れたふりをしなければ、ならない。
お金がないと言う事は、こう言う事なんだと身にしみてわかる。
世間の様子はテレビと新聞があるので、その点では家にこもって居ても不自由はなかった? 
テレビは、NHK、民放合わせて、チャンネルが多くなって内容も充実してきて、スポーツの実況中継、事件、社会現象、流行、ドラマ、アニメ、、、何でもござれになった。


話は変わるが、テレビについて思い出したので、、、。
中学3年生の冬、(昭和29年=1953年)私の膝上からつま先に向かって足全体紫色の模様になって、両親が動転して大学病院に家族皆で行く事になった。
往きの列車の食堂で好きな物を注文する様 言われるが、両親の慌てぶりと何か思い詰めている様子がおかしい、私は小学生の時、女医の手記『小島の春』を読んだのを思い出して不安になった。
列車の食堂で食べるのは初めてで、父に聞きながらトースト、サラダ、ミルク紅茶を頼んだ。
厚切りのトーストも、サラダのボンレスハムも、ミルク紅茶も初めての食べ物で、こんなおいしい食べ物があるなんてと感激した。
その夜、旅館で初めてテレビを見た、NHKで水の江滝子、金語楼の司会での『ジェスチャー』だった。
小学2~3年頃幻燈会によく見に行っていたし、4~6年頃は勝手に一人で映画館に行っていた。
テレビを見ながら幻燈とも映画とも違う、ラジオが付いているにしては、小さい箱から映像が見れるの
が不思議で、この地方だけが見られるのだろうか、新しい発明か?と思った。
翌日、大学病院に行って足を出した途端、先生も居並ぶ学生も大笑い?
やぐらこたつに生足で長時間当たっていたから、春になったら治ると言われ、お粗末な出来事だった。


『テレビ』と言う名前は昭和33年 = 1958年 に知った。高校3年の時で、下宿のお兄様がデパー トに
『相撲』の実況中継を見に行くのに、座るために敷く新聞 を持って 出掛けていたから  。                                                          昭和33年=1958年頃には、デパートのテレビの前は、いつも大勢の人だかりがあった。
まだ白黒テレビが一般家庭に普及してなかった事になる。


電気料金 1KW 10,3円   粉ミルク450g   330円  ビール 120円  新聞購読 580円
はがき 7円  チャーハン 120円  食パン 40円  リカちゃん人形 750円
家庭教師 5,500円  ラーメン 100円     コーヒー80円   大卒初任給 30,100円

東京都知事選、美濃部亮吉当選、革新都政の誕生。
富山県イタイイタイ病三井金属神岡鉱業所の廃水が原因と発表される。(岡山大 小林 純)

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