puffpuff0001 年金生活者のブログ 雨のち晴れときどき竜巻

年金生活その他についての考察あれこれ

お金の話(14)



昭和40代=1965年代に入ってから、半農半漁で人口の少ない町にもメートル法の完全実施とスーパーの進出を境に、暮らしは近代化? へ変化しつつあった。
食生活は『米穀通帳』の時代を脱して、卵、牛乳、油、牛肉、豚肉、鶏肉、マーガリン、バター、
ソース、マヨネーズ、ケチャップ、、、が、スーパーのショウケースに並んだ。
町行く人も、ミニスカートをはじめ全体的に身ぎれいになったと思う。とにかく明るい雰囲気が、そこかしこに感じられる様になっていったのは確かだ。


そうは言っても、昭和39年=1964年の東京オリンピックを見るため、カラーテレビが一挙に普及したと言われるが高価で買えなくて、私の知っている人達も皆持っていなかった。
労働賃金が(昭和40年代=1965年代)、毎年上がって暮らしが豊かになった、豊かになったと言われる割に、(私自身は困窮しているので、例外だが)周りの人達が、恩恵を受けている様にも見えなかった。 生活費が物価の上昇に追いつけない実感があった。


昭和41年=1966年 言葉を交わす様になった奥様が居らして、お嬢さんが結婚される事、お嬢さん自身が結婚の費用を全て用意されたと涙を浮かべながら話された。
お嬢さんは中学校を卒業されて、集団就職されたそうな。奥様は見送りの列車が動き出した瞬間、引きずり降ろして連れて帰りたかったと。そうしなくて良かった、とても結婚の支度はしてやれないから、とも、よく辛抱したとも、話された。


当地の集団就職列車は昭和37年なくなったと聞いた。
中学校に勤めている先輩が、集団就職列車の見送りに行った時の様子を話してくれたが、とても居たたまれなく正視出来なかったと。
遠くに就職させるには、余りにも若過ぎたし、健気で、親に心配させまいとする彼や彼女達の普段の元気を知っているので辛かったとも。
親は親で、尋常でなく心配の余り、特に母親は取り乱さんばかりで言葉をかける事も出来なかったと
先輩は涙を浮かべて思いだしながら話してくれた。


40年代に入って、中学生の高等学校への進学率は次第に上がっていくが、全員ではない。
商業高校や工業高校に進学した生徒達は、高校の3年間、就職を目的に技術を身に付けるか資格を取ったりする。
教師、先輩からの話で職場の様子を聞く機会が多いので、本人、両親も3年間で十分覚悟が出来上がっている。
高等学校に進学しない中学生の場合、本人が自ら集団就職を志願する場合もあるが、少ない。
ほとんど生徒自身が家庭の事情、経済を承知しているし、親も地元に仕事がない事を承知している。
両者止むに止められない,切羽つまった状態の決断だから、気持ちが揺れたり不安があるのは当然だ。
どう考えても、中学生自身が決断せざる得なかったとしても、余りにも若過ぎる、健気だ。     

昭和29年=1954年から始まった集団列車は昭和40年=1965年で廃止になった。
地方の農村から都市部に就職する中学生、高校生の新卒者を特別列車が運んだのだ。いわゆる高度経済成長期を支えた『金の卵』達だ。
年8万人を数え、専用列車が延べ3千本運行されたとあるから、大変な事。


昭和37年=1963年  『高校 3年生』  舟木一夫
    同上     『学園広場』    舟木一夫
昭和39年=1965年  『ああ、上野駅』  伊沢八郎

舟木一夫の『高校3年生』『学園広場』は、いつでも何処でも、流れていた。歌詞の哀愁帯びた明るさが曲にのって、世相にマッチしたのだろう。 体育の時間、運動会はフオークダンスが流行っていた。