puffpuff0001 年金生活者のブログ 雨のち晴れときどき竜巻

年金生活その他についての考察あれこれ

お金の話(10)



昔の日本の家屋は障子の外側に木の雨戸が付いている。風が強く雨や雪が吹き込む時は、雨戸を閉める。昼間だと部屋は真っ暗だ。当然、防犯も兼ねて夜は毎日閉めて寝る。
戦後一時期、父方の祖父(私の父の父)と同居していた事があった。夜明け前、暗いうちからガラガラ大きな音を立てて祖父が家中の雨戸を開ける。
老人は全く遠慮がないし、雨戸は木で出来ていて古く立て付けが悪い、家中誰も文句が言えない。(父が真っ先に音を上げて、半年?保っただろうか、私達家族は引っ越した。)


昔は良かったと言う人も多々居るが、半分は本当だろうが、半分は違うと思う。
頑固な気難しい家長だったら、家族は大変だ。
家長の顔色を窺いながら、過ごさねばならない。
日常生活、殆ど女、子供の手の掛かる仕事ばかり、先ず大家族だし、水汲み、薪での三度の食事の用意、しゃがんでする洗濯(たらいで、洗濯板を使ってゴシゴシ~、濯ぎは水をつかう)、季節の衣類の調達、薪でたく五右衛門風呂、、、、挙げれば切りがない。
書けば簡単だが、家事の一つ一つに、気が遠くなる程時間がかかって不便な事は、唯事ではなかったと思う。特に女、子供は、重労働だった。
私は、昔には返りたくない。不便だし、昔も季節はあった。エコ志向の時代、こんな事言っていけない?


借家は、古いのに雨戸がなかった。建具がほとんど無くて、代わりに不要になったカーテンを貰って2重,3重にして使っていた。
蚊の多い夏が過ぎて
秋も深まった時、『工事費は当方で持ちますので、風呂に水道を引かせて下さい。その代わりと言うのは申し訳ないが、家賃を上げないで下さい』と言う様な事を家主に頼みに行った。
困っている状態を説明して、お願いする間中ドキドキ、、、、私にとって初めての自分の為の他人との
交渉だった。
家主の許可は、あっさり出た。水道業者に頼むと、家主の許可書を市役所の水道課に提出しないと出来ないと言われて、再度家主に会った。
気が変わらなければ良いがと心配をしたが、次回もすんなり署名、押印して下さった。
これで、台所から五右衛門風呂に水の入ったバケツをかかえて何回も往復しなくてすむし、洗濯機も使えると嬉しかった。
特に雨の日は、水を入れる事も、風呂を焚くのもずぶ濡れだったから。


町の中心地に借家はあったので、魚を売るおばあさんは来なかったが、魚屋のおじさんが来た。毎日
魚の名前と値段を口で言うだけ、私は魚の名前(鯵、鯖、蛸、いか、あさりの様な大衆魚、、)しか知らない、食べ方も知らなかったので、おじさんの説明もわからない。、  
おじさんは今日の献立を聞く、私は店に行ってその日の安い野菜を買うので決めていない。
結局、おじさんの今日のおすすめと値段で決める。鯵が、だんとつに安かった、次に鯖。
万作、カワハギ、、、等の大きな魚は一匹丸ごと買って、刺身、煮付け、残りは翌日用に味噌漬け、照り焼き、フライ用、アラはお汁にする様にして、夕方おじさんが届けてくれた。
おじさんの魚は、高くはなかったし親切で勉強になったが、なかなか毎日は買えなかった。
この町に住んでいる間、肉屋、本屋、衣料,雑貨屋、に縁はなかった。


この借家に住み始めた年が東京オリンピックの翌年(昭和40年=1965年)で、調べてみると国内大不況となって物価問題深刻化とあった。
あ~お金、お金がほしいと毎日、私自身大不況の真っ只中で、世間の事どころでなかった。

昭和40年=1965年 11月 東海道新幹線 東京~大阪 ひかり1等、3520円   ひかり2等、1600円
          12月 宝くじ 単価100円, 1等賞金  700万円
          白米10kg  1125円