puffpuff0001 年金生活者のブログ 雨のち晴れときどき竜巻

年金生活その他についての考察あれこれ

お金の話(4)



昭和39年=1964年  山陰の小さな町に移り住むと決まって、両親共々借家をさがしに行った。
東京オリンピックが開催される年の春だった。 敗戦の食糧難を乗り越えて国民生活が多少落ち着いた頃で、新しい目標と言うか希望が渇望された時代。
具体的に、より身近かに共有、経験出来る国民的行事が東京オリンピックの開催だった。
そして日本が持てる最高技術の結集として、東海道新幹線の登場があった。
  

日毎、新聞やテレビが賑々しくなって、開催地の東京を中心に華やかさと熱気と興奮と合わせて
三波春夫の『東京五輪音頭』が津々浦々に流れた。
この『東京五輪音頭』は娯楽が少ない時代、全国の老若男女の耳にしっかり刻みこんだ様だ。


交通整備も最小の、東京よりはるか遠く離れた小さな町は呑気な雰囲気と静かさがあった。     
不動産業者の案内で借家を見て歩く途中で絶対お勧めの物件として2軒売家があった。
そのうちの1軒は町の中心の住宅地にあった、しかも住むのに広さが手頃だし一応庭が付いていた。 
売値が50万円だと言うので、父が買いなさいとしきりに勧めてくれたが、断った。
父は、私がお金を心配して断ったと思ったらしく、お金の事は後で考えて良いからと熱心に言って  
くれるが、その町に長く住むつもりが全くなかったので断った。


小さな町とは言え、町の中心地の一戸建ての家が50万円で買える時代だった。
(ちなみに 昼定食60円~、暮らしの手帖190円)
大学卒の初給料が1万円超だったかな?、、、、。勿論その額から諸費用、税金、、、等引かれて
実際の手取りは1万円をきるだろう。
実家を出た時、私は40数万円貯金を持っていた。
貯めようとして貯めたのではない、気が付いたら、貯まっていた。
私は買い物が好きでないし、欲しい物、特別食べたいものがあるとかがない、要するに自分が
どうこうするのが面倒の一点なのだ。
用意された洋服、着物を着て、出された食事を食べていただけ。持ち物も従姉達や親の知人がくれたお下がりを使っていた。 
勤めている時も、高校の入学祝いの時計を使っていたが、従姉のお下がりだった。
今考えて思い出すと私が小学校に入学する(昭和21年=1946年)と言うので、親戚、知人が
文房具を集めてくれた。従姉や知人の子供たちが使っていたクレヨンは折れたり、短かったりしていた が全色揃っていた。みんな優しかったので、同じ物が使えるのが嬉しかった。


小さい頃から親に物をねだったり、頼んだ記憶が余りない。忘れたのかな?
小学校中学年になるとお正月にお年玉を貰う、お祭りに出かけるのに、おこずかいを貰うが
使った記憶がない、変だなあ~、、、、。
ずう~と考えていたら思い出した、私はほとんどお祭りに出かけていない。
その代わりと言えるかどうか映画が好きで、しかも一人で見に行っていた。子供料金があった。
一昨年だったか、チャップリンの映画シリーズがNHK衛星放送であったが、ほとんど見ていたので
我ながら驚いた。 断続ながら、小学校中学年~20歳代前半迄、その都度、何かきっかけがあったんだろう、集中して映画館に少ない時で数ヶ月から飽きる迄一人で通い詰めた。
日本映画、洋画を問わず、そして映画館は5~6軒あったと思う。
映画代が一番お金がかかったが、惜しいと思った事は一度もなかった。


昭和36年=1961~昭和38年=1963年
入場料、洋画、日本映画が220~350円    再上映の日本映画3本たて55円     喫茶店でコーヒー50円
(昭和38年=1963年)  地方公務員大卒初任給 10,300円