puffpuff0001 年金生活者のブログ 雨のち晴れときどき竜巻

年金生活その他についての考察あれこれ

お金の話(2)

(昭和37年=1962年)大病を患って、今で言う就職内定のチャンスを自ら失った。
あり得ないと思うかもしれないが、時代は私達同級生全員100%とは言えないが、来春~夏~秋にか けて社会人になれる、そう思わせる流れがあった。
今は殆ど死語になっている様だが、『働かざる者、食うべからず』が子供から大人迄広く浸透してい た時代でもあった。
 

3ヶ月の入院中初めの2週間位は、いろんな意味で失った事の大きさに終日泣いて過ごした。
暫くして自分が全く違った方向に舵をきったと言う思いが強くなって、茫然自失の状態が続いた。
読書は禁じられていたが内緒で読むと、夕方熱が出て看護婦や医者にすぐばれて仕舞う。
月が変わっても病気の回復や将来の見通しが見えなくて、滅入っていく自分を持て余していた。
やがて同級生は卒業して社会人としてそれぞれの任地に出発した事を聞く、、、。
う~も、す~も無かった。
号泣もしたし、涙も随分流した。 ど壷に、はまった如くさんざんもがいたり、あがいたりした。
もう何もかもどう仕様もなかった。
考えても状況が良くなるとも思えず、疲れ果てたと思った時、腹が決まる。
先ず健康になる事!。
その頃から症状は安定してきた。時間がかかったが退院出来た。
一年後、なんとか就職出来た。

 
働いて得たお金は、そっくり貯金になった。
私は買い物が好きでない。買い物が、ただただ面倒なのだ。
不自由が限界を超えて、にっちもさっちもならなくなって、ようやく腰をあげる風だった。
買い物に行く位なら、本を読むか、何もしないでゴロゴロ寝転んでいたいだけだった。
  
 
 昭和30~39年代、もう戦後ほどの食料不足はなかった、米穀通帳を使わないで米が買えた。
デパートの食堂は家で食べられない料理が食べられた。不思議な事にデパートの屋上に遊園地があっ た。 当時のデパートは特別な存在だった。一方で市場が一番賑わっていた頃だ。
都会にはデパートや専門店があって、すでに既製服がかなり普及していたかも? 
住んでいたところは未だ品揃えが十分でなく気に入った洋服、サイズがなかった。 で、紳士服、婦人服は洋裁の出来る人に頼むか、仕立て屋に頼むのが普通だった。
男性はシーズン中、一着のスーツだったし、女性はスーツの上着またはカーデガンの下のブラウ
を変える位が普通だ。洋裁学校は盛況だったし、主婦は機械編みを習っている人が結構いた。
 

その頃から母は私の格好を気にする様になった。結局以後ずう~と、母が元気な間(~70歳位代まで)
私の洋服、着物、小物など用意してくれて、それをただ着るか、使うだけだった。
時には好みでない物もあったが、、、、。
母は母で自分のセンスに絶対自信を持っていて、今年94歳になるが会うと頭の先からつま先迄しっかり
見る。75歳になる私の外出着は、当時母が誂えてくれた洋服、着物だ、以後自分で用意した物は、黒い鞄一つと靴だけだ。
私は両親、自分自身も認める『物持ちが良い』人間だ。たった一つの私の長所だと思う。
私の記憶が間違ってなければ、両親に物をねだった事はないと思う、私の実家は、決して裕福でなかった。
両親が大変な思いをして働いて居た事を知って居たので、与えられた物は、一生懸命大事にしただけ。
年齢不相応の物だったと思われるが、今使っても遜色が無い。
当時の洋服を最近はサイズが合わなくて,リフォームしてもらって着ている。時々、母に着てみせる、覚えていて喜んでくれる。


この歳になって振り返ると、当時の私はとても傲慢で生意気な大人に成りきれていない子供だったと
思う。
だから20歳半ばで、病弱でその上、念願かなった正規雇用の仕事を辞める事になって、両親は大いに不安がって反対したが、強硬と言うほどではなかった。信じたかったのかも、、、、。
誰のせいでもなかった。
此れから先の事について、勧められた事もなかったし、まして強制された事でもなかった。
料理、洗濯、掃除はした事がなかった、(両親を亡くした従姉が、我が家に来てから、彼女がお嫁に行く迄、家事は全て彼女がやっていた。従姉に父は読み書きを、母は家事一切を教えていた。)
 

社会生活の経験が殆どなく、何より現実の生活を、知らな過ぎた。
そして地域のあらゆる老若男女、親戚、、、の人との関わり合い方等も然り。
ご飯を食べる事がどんなに大変で、しかもご飯を食べなくとも空気を吸って生きるだけでもお金が
必要な現実を知らなかった.。
以後、お金の大切さを嫌と言うほど思い知らされる事に成った。