puffpuff0001 年金生活者のブログ 雨のち晴れときどき竜巻

年金生活その他についての考察あれこれ

小学校時代の放課後(3)

春になって暖かくなると、母は短時間ではあるが家事が出来る様になった。
住んでいた所は農村地帯ではなかったが春には、囲まれた山々の緑濃く、菜の花とれんげ畑が近郷一帯
ひろがっていた。 蝶々も結構、種類が多くて数も多いかった。そんな風景の中に家が点在していた。
誰もが、浮き立つ様な気持ちになるし、出かけたくなる。


母と弟と私3人で食べられる野草を摘みに行く。ヨモギ、オオバコ、ヤマブキ、フキ、タンポポナズナ、アザミ(根)、ノビル、ハコベ、土筆、三つ葉、セリ、ヨメナ等。
これらの野草をさっと湯がいて、雑炊に入れて食べる。 今なら天ぷら、おひたしや煮たりして食べるが、当時油はなく、どの家の子供、大人も摘みに行くので量は少なく 他の食べ方はしなかった様に思う。


初夏から秋にかけて父、母は忙しくなる。冬の支度をしなければならないから。
まず私と弟が去年の冬より一回り大きくなって毛糸のセーターやパンツ、靴下をほどいて編みかえさねばならない事、各人の綿入れのちゃんちゃんこ、布団をほどいて、布地を洗い張りをして縫い直す事、、、、。
私も毛糸の湯のし、巻くとか、布団つくりに真綿を広げたり、四隅から巻いていく作業を手伝って出来上がっていく過程が楽しかった。
父は手ミシンを扱えたので、私の上着、スカートや布地にミシンをかけて縫う方を手伝っていた。


田んぼに水が張って田植えが終わると、 『たにし』が大きく育ってくる。
休日は勿論、休日以外、時間があれば家族四人、弟を乳母車に乗せて出かける。
我が家は田んぼを持っていないので、 持ち主にことわって田んぼに入らせてもらうのだ。
ほとんど父一人で『たにし』を採った、帰りは『たにし』も乳母車に乗せて帰る。
『たにし』に泥をはかせて、佃煮にする。佃煮は家族にとって貴重な蛋白質だった。  
余れば売るか、他の食料に換えてもらう。


冬になると、母は未だ本格的に回復してないので無理が出来ず、家の中で過ごす。
私は母から毛糸でゴム編みやメリヤス編みを習ってマフラーの様な凸凹した形にならないものを編んだり人形の服を作ったり、弟と遊んだり、時に父に連れられて買い出しに出かけた。
小学校1~3年生は、毎年同じ様な過ごし方だった。
ほとんど友達と遊んだ記憶がないが、家にいるのが楽しくて、一生のうちで一番穏やかに過ごした期間だったと思う。
そして不思議なことに、食料難の時代、食事が美味しいと思った記憶もないが、お腹を空かした記憶も全くないのだ。