puffpuff0001 年金生活者のブログ 雨のち晴れときどき竜巻

年金生活その他についての考察あれこれ

涙(3)

三人が帰宅した時の様子と雰囲気は、私に強烈な印象を残した。
久しぶりに会った母の変貌にどう対応してよいか全くわからなかった。
弟の様子を聞く事、弟の名前を言う事もはばかられる雰囲気を感じ、結局、私は母に声をかけ損なった。あの時から、私は、父母と亡くなった弟のために何でもよかった、何かすべきだったと何もしなかった自分を責め続けた。 

商売をしていたが、まもなく店も家も人手に渡った。父母は子どもを失うと同時に仕事と家も失ったのだ。 親しい人の世話で借家に移ったが、台所用品、寝具類以外、荷物はほとんどなかった。

父は元々口数の少ない人であったが、 借家に移って家に居る時は 難しい顔をして考え込んでいて家族と話す事はなかった。    
母は『心ここにあらず』の様で、見るからに危なげな、目の放せない状態で気の休まる事がなかった。
私は私で『弟の代わりに私が死んだ方が良かったのではないか?』と思う様になっていた。
もう、家庭では 末弟以外話す事、笑う事もほとんどなくなっていた。

弟が亡くなって60年以上経つ。
亡くなった父と94歳の母(健在)が、 亡くなった弟の話をするのを私と末弟は聞いた記憶がない。
父母の弟を亡くした心の傷は余りにも深く生涯、癒される事はなかったと推察している。

弟が亡くなった当時、日本中食糧は不足し、薬品はなく治療どころではない状態だったので栄養失調も人の死も、日常に普通にあった。
入院患者は三食、各自で調達せねばならなかった、病む弟のために父はおそらく食糧を求めて奔走し、母は付き添っていて、病む弟が次第に弱っていくのを見守るしか出来ない無力さを嘆いていたのだろう。