puffpuff0001 年金生活者のブログ 雨のち晴れときどき竜巻

年金生活その他についての考察あれこれ

涙(2)

戦後,(昭和24~25年)の話、まだ小学校では給食が始まっていない。昼食は各自 家に食べに帰っていた。友達の中には、校区の境に住んでいて、午後の授業が終わる頃学校に戻ってくるのもいた。
ほとんどの家庭は、弁当の用意ができなかったのだ。
当時のご飯と言うか、食事は雑炊とは名ばかりで雑穀と野菜を多量の水で薄めた様なものが主だった。食料事情はどの家も同じだった。

海外からの引揚者、復員兵(戦争が終わってあの人のお父さんとかお兄さん、従兄弟が返って来たとか、亡くなったとかの話は日常茶飯事だった)
未亡人、戦災孤児が、多かった(私や末弟の世話をしてくれた従姉は外地で父親を連れて行かれ消息不明、 母親が病死したので子どもだけ三人で帰国、父親の兄妹のもとに ばらばらに引き取られていたが食べさせることが出来ないと他の二人は孤児院に預けられた)
この頃、赤ちゃん誕生ラッシュ、後の団塊世代
毎日、ラジオでは、『たずね人の時間』があって、消息不明者を探していた。
大人は仕事を探し求め、食料の調達に奔走していた。何もかも不足していた。大人も子どもも周りの人のことをかまう余裕がなかった。

当時 父39歳 母28歳 私、弟(小5 小2になったばかり)末弟2歳
いつの頃か、弟が入院して母は付き添って病院に行ったまま家に帰って来ることはなかった。父もほとんど病院に詰めていたので、我が家は留守状態、従姉が私と末弟の世話をしてくれていた。
弟は、どれくらいの期間入院していたのだろう?  かなり長期間だったと思う。
ある日学校から帰ったら、弟が亡くなったと言う。 見舞いにも行ってないので、元気な、温和でやさしい弟しか知らないので、とても信じがたかった。
夕方、父は憔悴しきって、母は半狂乱な状態で、亡くなった弟と一緒に帰ってきた。